事の顛末

どうもうまくいかない。旅行業をはじめようとベトナムに渡ったが、パートナーとの仲違いによって、頓挫してしまった。ベトナムではパートナー探しが難しいというが、まさにその通り。今後のためにも、事の顛末を記しておこうと思う。

パートナーだったAは、日本語が話せ、留学経験もある。不動産会社を経営しており、私の知り合いが勤めていたことから知り合った。彼とは気が合い、何度か不動産会社の社員にならないか誘われたが、給与面で折り合わず、話は立ち消えとなった。ところが1年半ほど前、彼が日本法人を立ち上げた。私が宅建取引士の免許を持っていることもあり、顧問として勤めることとなった。

それが今年になり、旅行業をベトナムでやりたいという私の思いに答えてくれる形で、ライセンスを貸してくれることになった。ただし、彼の不動産事業を手伝うという条件で。いま振り返るに、ここが間違いのもとだったように思う。

彼は人材業も始めていて、日本からベトナムに技能実習生を送る送り出し機関の経営もはじめていた。私も送り出し機関に勤めていた経験があるため、こちらも手伝うこととなった。

6月末になり、私が連れて来たお客さんから、数名のベトナム人を採用したいという連絡があった。日本側からいただける手数料は、年収の20%程度。ところがAは、そのうちの8割をよこせと迫ってきた。彼の理屈としては、私は(正社員ではないとはいえ)社員であること、会社の名刺を使っていることによる営業成果であることを強調していた。もっとも実のところ、あっさり採用できたこともあり、欲が出たのだろう。彼のずるいのは、自分が実習生サイドからいくら取るのか、明らかにしなかったことだ。透明性、信頼感なしに、この事業は成り立たない。それでいながら日本側の手数料に手を出してくるのは違うだろう、私としてはそう反論した。

15分くらいやりとりしただろうか、Aの態度が急変し、「もういい。あとは明日話そう」と言い出した。確かにお互い頭に血が登っていることもあり、翌日に回すのは悪い提案ではなかった。しかし翌日、Aは予定が詰まっており、話をすることは叶わなかった。

その翌日は私の一時帰国日。羽田空港に着くと、クビにするというメールが入っていた。しかも、日本側の顧問契約も解消するという。

ここで恨みつらみを書こうとは思わない。ただ、あまりにもあっさりした決断の早さに驚きを覚えているのと、パートナーに対する敬意が欠けていると私は感じている。Aがベトナム人だからなのかはわからないが、異国でビジネスをするという難しさを、肌で思い知った。

ついに、イチローが。

イチローの偉業は数あれど、今年で35歳になる私が、バリバリの小学生であったころから第一線で活躍し続けていたことということが、一番すごいことだと思う。活躍していた、ではない。活躍し続けていた、である。成績はおろか、ケガをしない、メンタルを切らさないことを、20年以上に渡って続けていた。誰だって、短期間ならピークは訪れる。でもそれを3年、5年、10年、20年と続けることの偉大さは、大人にしかわからない。

もうこんな選手は出てこないだろう。と思ったら、大谷が出てきた。でも、青春時代からずっと活躍を目にしてきたスーパースターと、大人になってから出てきた年下のスーパースターでは、思い出の濃密さが違う。

私はイチローが好きだった。彼のすべてに、スタイルというものが感じられたからだ。10歳の私は、彼の振り子打法にそれを感じていたし、17歳の私は、大男たちを圧倒する疾さや巧さに、21歳の私は、数十年前の記録を超えるその姿に、26歳の私は、日本を優勝に導く集中力に、30歳を超えてからは、限られた出番の中でも平然とベストを尽くす姿に

スタイルを感じていた。

松井秀喜もそうだが、スマップ、安室奈美恵といった子どものころのスーパースターが、引退という節目を迎えることが多くなってきた。考えてみれば、イチローが世に出てから、今年で24年目なのだ。私もそれなりに年をとった。イチローを少しでも見習って、ベストを尽くすための日々の準備を心がけたい。

キートンのメンタリティ

私はユニークな発想ができる人間で、それを肯定的に評価してくれる人が、たまにいる。他人にとってはなかなか実行できないことが、私は無理せずにできるところがあるからだろう。

そういう人たちは、私が輝いている姿と、自の夢を重ね合せることがあるらしい。私を雇ってなにか成し遂げたいと思う人が、私の周りにはよく現れるのだ。でも、私はいわゆる成功意欲は強くないタイプで、無理して成功しなくてもいいと思っている。大金持ちになって人格が破綻したり、成功を目指して人を蹴落としたり、守るものが多くなりすぎて身動きが取れなくなることのほうが、よほど怖いのだ。

もちろんベトナムという、いまアツい、特殊スキルを持っていることが関係しているのだろう。現場マネージャーとしてそこそこ満足していたところ、「あなたはこんなところで留まる器じゃない」と言われ、社長の描くビジョンに乗せられそうになったが、覚悟が固まらないままに物別れに終わる、といったこともあった。

「成功志向が強くなく、野心がない」のに「ユニークさを発揮したい」という相反する性格を持っているため、安定志向の人からはついていけないと言われ、起業家マインドの強い人からはやる気がないと思われる。どうにも中途半端なのだ。

そういえば学生のとき、テニスのスタイルもトリッキーだとよく言われた。見てて楽しくて、常人にはできないようなショットをするが、常人にできるようなショットができなかったりする。だから結局、2−3回戦は勝てても、それ以上にはいけず、そこそこの結果に終わってしまう。練習しない人には勝てても、しっかりとした努力を重ねてきた正統派実力者に対しては、やっぱり負けてしまうのだ。

この1年くらい、大きな夢を抱く起業家から、一緒にやろうと口説かれることが多い。でも、その期待に答えられるかと思うと、「そこそこ思考」が頭をもたげ、プレッシャーに感じてしまう。でも、そろそろどちらに軸足を置いた人生にするのか、価値観を固めなければならない時期にさしかかっていると感じる。

永遠の厨二病ではないが、永遠のマスターキートン病といえるかもしれない。一見ひ弱だが、芯は強く、弱者に優しい。軍隊やオプの経験、考古学の知識など、それだけで生きていけるスキルも持っている。でもキートンは、どれに決めるわけでもなく、生き方は中途半端だし、本人もやきもきしているように見える。そんなキートンの年齢に、私は追いつこうとしている。キートンに憧れるだけではなく、キートンを超えるような生き方をしていきたい。

勝っても負けても、世界は優しい

「こんなに早く辞めてしまったら、笑い者だよ」

「minamiならできる、がんばれ!」

あるとき、会社を辞めようと思うと告げると、母からこう言われた。

「ああ、私はこういうふうに育てられたんだなあ」

と、妙に感慨深い気持ちになった。

これまで、「私ならできる」「負けて笑われるのは恥ずかしい」というプレッシャーのもと、それに打ち勝つことが人生の目的になっていたように思う。そしてそれは「できない自分は笑い者になり、存在価値がない」という極端な思考につながっていたように思う。

だいたい、20代半ばくらいまでは勝てることが多かったし、それがプライドにもなっていた。でも私は、27歳のときに大きな挫折を経験した。その挫折を乗り越えてやるという決意のもと、30代に入ってベトナム生活を乗り切った。タフにはなったのだろうが、ものごとを勝ち負けで捉える性格は、変わることがなかった。

協力隊から帰ってきてからも、自分が本当にやりたいこと、誰かのために自分が汗をかけることはなんだろうという自問自答の前に、優良企業に涼しい顔して入ってやろうと奮闘し、それを達成できた自分に酔っていた。自らが勝手につくりだした、他人からこう思われたいという自己イメージにこだわっていたのだ。

「人から認められて、安心感を得る」というサイクルは、うまくいっているときはいいが、うまくいかないときに、こんなはずじゃないともがき苦しむことになる。

思えば、負けまいと奮闘していた20代のとき、「勝っても負けても、私はあなたの味方だよ」と当時の彼女に言われたときには、世界観が変わるほどの衝撃を受けた。たとえ負けても、愛してくれると明言してくれる存在に、はじめて出会ったような気がした。

真面目だね、と言われることも多いが、それは目標を達成しなければ生きる価値がない、という強迫観念から出てくるものだから、無理や無謀につながる。目標を達成できないという失敗が、大げさにいえば死刑宣告のように感じてしまうのだから、目標を無理してでも達成しようとして、空回りして苦しんだり、達成したかのように強がることもある。

では、どうすればいいのか。性格診断テストによると、こんなことが書いてあった。

このタイプは、何と言っても目標を達成する能力が抜群です。ビジョンを語り組織を目標に向かわせるリーダーシップも持っているので、ツボににハマれば大きな仕事をやり遂げるエネルギーを生み出すこともできます。成功成功だけにこだわって暴走しないよう、周囲との調和を保つよう注意しましょう。

時には周りをサポートする黒子役に徹してみたり、社会的な成功など外側のことでなく、自分の内面によって自分を満たす道を探ることも有効です。

このタイプの人は、元々才能がある人が多いのに、地味な下積みを嫌がる傾向があるため、その才能を伸ばしきれないことがあります。より大きな成功をつかむには地味な努力も必要だと理解しましょう。

勝っても負けても、世界は優しいということだと、私は解釈した。目標達成能力が高いことは長所とされるけれど、勝ちを追い求める姿勢は、ほどほどでいい。一見、地味でつまらないことでも、丁寧にする。自分のアピールでなく、人のサポートを心がける。そんなふうに、心がけてみたい。

反応しない練習

我々は日々、反応しまくって生きている。

上司から叱責されては取り乱し、満員電車で足を踏まれれば腹が立つ。恋人の返信が遅ければ不安になり、自動改札で詰まっている人がいればイライラする。すべての元凶が「反応すること」にある。

その対極にあるのが、お坊さん。彼らはなぜあんなにも泰然自若としているのか。ひとつのヒントとして、彼らは「反応しない」プロフェッショナル。そんな彼らのマインドを生活に取り入れれば、楽になるのではないか。

もちろん、人間である以上、出来事に対してまったく反応しないのは難しい。でも、「ああ、反応している」「やばい、ココロ乱れてるな」と意識するだけでもだいぶ違う。

私はここ数ヶ月、この思考を手に入れてから、だいぶ楽になった。特にベトナムにいるときは、反応しっぱなしだった。ブログを読み返すと、そりゃ疲れるわと思うほど、出来事に反応していた。

反応が怒りとなって表現されるとき、こんな思考パターンをたどる。

①出来事(例:恋人からのメール返信が遅い)

②刺激(例:にもかかわらず、恋人は能天気)

③反応

④判断(例:あいつはひどい奴だ。私のことなんて何も考えていない)

⑤行動(例:何なの!?あなたはひどい人だよ!)

こんなことを繰り返すと、扱いづらい人だと思われてしまうし、何より自分がしんどい。

反応しないことを意識すると、人に愚痴を言う回数も減るし、切り替えも早い。おもしろいもので、他人をみていても「ああ、この人はいま、激しく反応しているな」と感じ取れるようになる。

スポーツ選手でも、反応しない(と心がけている)人は成功しているし、逆に反応してしまう人は持っているポテンシャルを発揮しきれていないように思う。イチロー本田圭佑が前者の典型例だろう。一方、日本シリーズの試合中、守備についているときに泣くなど、反応しまくって感情を露わにすることをいとわないでいた清原和博は、薬物事件は抜きにしても、もっとやれた選手だったように思う。ある意味、サイコパスの真反対ではあるのだけれども。

イチロー「人に会いたくない時間もたくさんありましたね。誰にも会いたくない、しゃべりたくない。僕はこれまで自分の感情をなるべく殺してプレーをしてきたつもりなんですけども、なかなかそれもうまく行かずという、という苦しい時間でしたね」

本田圭佑「サッカーって基本的に上手くいかない時のほうが多いです。その度にムカつくし落ち込むし、でも上手くいく喜びを知ってるから、また明日に向けていい準備をしよう。すぐに切り替えて次の勝利、次の成功に向けて頑張ろうとしてきました」

追い詰められるとキレていた原口元気は反応しなくなってから、明らかに成長した。メンタルの成長といってもピンとこないが、反応しなくなると表現すると、よりわかりやすい。その意味で、ナチュナルな鈍感力を持っている人(松井秀喜がそうだと思う)はともかく、凡人は意識的に鈍感になる訓練をしたほうがいい。

【Vol202】青年海外協力隊員の就職活動②企業に評価されるスキル

前回の記事で、就職活動の流れと基本的な考えについて書いた。今回は、企業に評価されるスキルや経験はどんなものか、考えてみたい。これまでの15回ほどの面接の経験から、企業に評価される、面接での反応がいいワードがあることがわかってきた。

ポイントは「部下や同僚として働いている姿を想像させる」ことである。

例えば、以下のような受け答えの反応がよかった。

「自己紹介をしてください」

→「ベトナムの農村に住み、ベトナム語で仕事をしてきました」

「現地で出してきた成果は何ですか」

→「組織に頼らず、村人の収入向上、ビジネス支援で結果を出してきました」

「強みは何ですか」

→「泥臭く汗をかき、現地の人とコミュニケーションが取れること。加えて、ビジネスパーソンとも対等に会話ができ、キャッシュという成果のために努力できることです」

・・よく言われているように「現地化」できる日本人を、企業は求めていることがよくわかる。ただ、重要なのはローカルにばかり肩入れし、企業の利益を考えない、組織の論理が理解できない人間は採用されない。その部分を私は、20代の7年間、大企業に入社し1社だけでやりとおしたという実績でカバーしている。要は「日本人ばかりとつるみ、現地に馴染めない駐在員とは違う」「組織の論理とローカライズを両立できる」ことをアピールし、日系企業のビジネスマンとして海外で仕事をしている姿を想像してもらえばいい。

加えて、資格や学歴も重要だ。絶対不可欠とは言わないが、相手からの突っ込みどころをなくすのに、資格や学歴は活用できる。資格とは、いわば「自分が誇れるところ」をさりげなく組み込めるツールであり、一生使えるという点から見てもコスパがいい。私の場合は「立教大学卒」「宅建」「トイック765点」「ベトナム語検定」が主なものだった。履歴書に書かれているこれら資格や学歴を見て、面接官は私についてこのような印象を持つだろう。

「とりあえず、バカではなさそうだ」

「基礎的な英語力はあるみたいだな」

ベトナム語ができるっていうのも、ウソではないらしい」

・・ここまで来れば「だったら、当社の海外事業部に配属させても問題ないかな」「これからもしっかり勉強してくれよ」という評価が導き出されやすい。トイック765点なんて大したことはないし、強いアピールポイントにはならずとも、不安点を除去できるレベルではあるのだ。余談だが、これは青年海外協力隊の採用においてもよい材料になった。ベトナム語は難しいから、面接官は語学にアレルギーを持つ人を避けたがる傾向にあるが、トイックを持っていれば採用する側の安心感につながる。

海外事業部に行きたいと言っているのにトイックを持っていなかったり、不動産業界での経験があるのに宅建をもっていなかったりすると、相手にとっては「あれ?」という気持ちになってしまう。もちろん思わない人もいるだろうが、特に中途採用では現場(将来の上司)、役員、人事すべてに評価される必要があるので、突っ込みどころは無くしておいた方が無難である。

というわけで、活動中の後輩隊員に言えることは、とりあえずトイック730点くらいは持っておくことと、使いどころがイメージしやすい言語(志望業界にもよるだろうが、スペイン語ベトナム語、ロシア語、タイ語アラビア語あたりは強いと思う)を習得することだろう。これまた厳しいことを言うようだが、アフリカの少数民族の言語をマスターしても、企業からは評価されにくい。また適当な英語でお茶を濁したり、せっかく上記の言語が使える地域に派遣されたのにマスターしないのも、もったいない。

いま振り返ってみて、ベトナム、それも英語が通じない農村という任地で、私はラッキーだったと思う。「再就職のしやすさ=企業に働くイメージを持ってもらうこと」で言えば、世界でも有数ではないだろうか。もちろん、語学も活動も真剣に取り組むことが前提になるが。

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お読みいただき、ありがとうございました。次回は「青年海外協力隊に参加するメリット」を、キャリアの面から考えてみます。

【Vol202】青年海外協力隊員の就職活動①キャリアはリセットされない!?

私は30歳のときに、新卒で7年間勤めていた大手企業(不動産デベロッパー)を辞め、青年海外協力隊員としてベトナム・ドンラム村に赴任した。帰国後3ヵ月が経過した最近になり、数社から内定をいただき、転職活動を終えようとしている。条件も悪くなく、前職と同程度は確保できそうだ。そんな私の経験を踏まえ、「30代」「事務系会社員」「退職参加」での就職活動はどんなものか、何回かに分けてお伝えしたい。

まずは、内定に至るまでの過程を紹介する。

帰国してから約1カ月後、2016年の11月になって、就職活動を始めた。転職エージェントやサイトへの登録、JICAの研修参加、進路相談カウンセラーとの面談といったことからスタートし、話をする中で就職活動においての軸を固めていった。

当初挙げていた条件は「業種にはこだわらない」「英語が使える仕事」「前職と変わらない年収」の3つ。新しいことにチャレンジしたいという思いから、前職と違った業界であるメーカーや商社にエントリーした。その数にして、30社以上。しかしそもそも、書類選考が通らない。あっさり落とされると精神的にも辛くなり、自信を失っていた時期もあった。

そんな中でも、JICAの企業交流会で出会った老舗調味料メーカー(以下A社)には興味をもっていただき、2回の面接を経て内定に至った。ただし年収が低く、本社が東京でないことから最終的にはマッチングしなかった。この経験の後、「拠点」「年収」といった条件面を明確に意識するようになる。私は「住む場所」や「年収」にあまりこだわりを持っていないと自分では思っていたが、やはりあの2年は例外的な2年であり、「田舎暮らし」に加えて「お金がない」生活は、私にとっては強いストレスになっていたのだ。内定欲しさもあり、やや無理して臨んでしまったかなと、今では思う。もっとも

「東京本社がいい」

「海外出張や駐在を視野に入れたい」

「田舎で仕事はできるけど、住むことはできない」

「未経験の業界だと年収を落とさざるを得ない」

という自分の価値観や市場価値が明確になったフェーズであり、それを得られただけでも大きな収穫だった。

さて、A社と同時並行で、他社(以下B社)の面接が進んでいた。B社は前職の不動産デベロッパーに近い業種で、海外事業部配属というものだった。そこでの面接はタフなものだったが、やはりマッチング(不動産+海外経験)は容易で、しっかり準備して面接に臨んだ結果、内定に至った。A社とは違い、特に無理をしているという印象はなく、自然に内定を得ることができた。

この経験から私は「キャリアはリセットするものではなく、修正するもの」だという思いを強くした。

面接では「自己紹介してください」「どうして新卒でその会社を選んだのですか」「どうして協力隊に参加しようと考えたのですか」「どうしてベトナムだったのですか」「どうしてビジネスの世界に戻ってくるのですか」「どうして当社を志望するのですか」と繰り返し問われることになる。そこでは協力隊の経験はキャリアのすべてではなく、一部とみなされる。その答えに本人の価値観が出てくるし、キャリアのターニングポイントにおいての行動をしっかり説明できるかどうかの論理的思考も、同時に試されている。

その意味で「20代は不動産デベロッパーとして7年間、経験を積みました。30歳を迎えたころ、海外で働きたいという思いが強くなったために青年海外協力隊に参加し、ベトナムに赴任しました。帰国後の現在、就職活動を進めていく中で、私が経験してきた不動産+海外経験というキャリアを活かせそうなのが御社の海外事業部、特にアセアンにおけるビジネスだと考え、志望しています」というのは、論理的に筋が通っている。

仕事に対して、自分の譲れない価値観や条件を明確にし、培ってきたキャリアの一貫性を持たせる。それらをしっかり整理した後、面接で能力を証明する。これが就職活動の流れであり、協力隊員は苦戦するといった一般論は必ずしも当てはまらない。

そのためにも、派遣中の後輩隊員には、この2年間で自分の能力を証明するという意気込みをもって活動を進めてほしいし、JICA内での評判や人間関係なんて気にしなくていい。停電に耐える、クーラーはぜいたく品、洗濯物を手洗いする・・こういったJICA的な美学は、ビジネスパーソンには一切評価されないという冷徹な事実も忘れるべきではない。任国での2年間はただの容器、入れ物に過ぎず、そこにどんな水を注いでいくかはあなた次第だ。

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お読みいただき、ありがとうございました。次回は「帰国後の就職活動において、企業に評価されるスキル」について書きます。