【vol28】クラウドファウンディングに対する違和感

青年海外協力隊でボランティアしていると自己紹介すると、たまに誉められることがある。

「偉いね。困っている人のために、わざわざベトナムでボランティアするなんて」と。

自分で意識したことはあまりないが、困っている人を助けたい、という気持ちを強く持っている人たちが集まっているのだろう。

それは素晴らしいことだと思うし、嬉しく思う。

しかし最近、ちょっと気になることがある。

「協力隊員のクラウドファウンディング」だ。クラウドファウンディングとは、こんな意義ある活動をしたいけど、お金がなくてできない!という人に、ネット上で寄付をすることができる仕組みだ。

数か月前、同期隊員がクラウドファウンディングを使って、アフリカの子どもたちのために寄付を募るという呼びかけを見つけた。

しかし、当時の私は、なぜか応援する気になれなかったのだ。そのときは何となく、というレベルで留まっていたが、今回の記事では、もう少しその違和感の正体が何なのか、突き詰めて考えてみたい。

クラウドファウンディングのサイトで「青年海外協力隊」というキーワードを入れてみると、数え切れないほどの寄付募集が出てくる。一つ一つの活動は意義深いものもあれば、疑問を持つものもある。しかし根本的なものとして、

「こんなに簡単にお金をやり取りしちゃうの?」と感じたのだ。

プロジェクトによっては学校を作ったり、水道管を設置するなど、数百万円単位の寄付を募るケースもある。言葉が通じ、インフラが充実している日本でやるのだとしても、自分自身がつきっきりで数週間以上、みっちり時間をかけないとできないな、と直感的に感じるほどの大プロジェクトだ。とてもじゃないが、たとえ予算があったとしても、途上国でいまの私に実行できる自信はない。

もちろん私の身に置き換えてみても、村のいろいろなところを改善したいという思いはある。お金さえあれば・・と感じることも毎日のことだ。でも、見知らぬ人に寄付を募る気持ちには、私はなれないのだ。

なぜか。

「私には失敗の責任が取れない」からだ。

例えば、村の子どもたちに日本語の学習教材を買ってあげたいと思う。クラウドファウンディングに応募する。無事にプロジェクトが成立し、数十万円の寄付を得る(最低がいくらか知らないが、30万円以上のプロジェクトばかりだ)。

それからどうするか。例えば日本できちんとした教材を買って、ベトナムへ発送する。まずそこで「本当に辿りつくのか」と考えなければならない。どの配達業者なら信頼できるのか、関税は、検閲は、無事に想定内で済むだろうか。何しろ、会ったこともない人様のお金だ。慎重にやらなければならない。しかし「モノが到着する」だけで一苦労なのが途上国だ。万が一トラブルがあって、教科書が村に届かなかったらどうするのか。じゃあハノイで買うか。どこが信頼できる業者か。不良品があったら返品できるのか・・事前に不安をひとつずつ消していく。もちろん、膨大な作業になる。

いくら考えても、結果として失敗してしまうケースもあるだろう。

そこが問題だ。「ゴメンなさい」ですまないのが現実なのだが、「ゴメンなさい」ですんでしまうのが、クラウドファウンディングに対する違和感の正体といえる。

実際のところ、成立したプロジェクトの報告を読んでいると、失敗や、少なくとも遅延している例が数多くある。

例えばこのプロジェクト。280万円以上集めている様子だが、現地でトラブルが起きた様子で、どうもうまくいっていない。6月から報告も途絶えている。

これが寄付でなく、個人でリスクを負った事業だとすると、どうなるか。280万円を銀行から借りる。甘すぎる設定だが、金利を年4%としよう。それだけで、6月からの3カ月で28,000円ほどの金利がかかっている。仮に1年間プロジェクトが軌道に乗らないとすると、112,000円が「金利だけで」かかるのだ。もはや若者1人の人生を破滅させるのに十分な借金になっている

前回も書いたが、金額がリアリティを持つのは、バジェットの上から3ケタ、1%以上である。裏を返すと、そこまでシリアスに考えなくてもいいのは、バジェットの1%以下である。調べてみると、30代男性の貯金の平均額が500万円(中央値で200万円)だから、一般的に30代男性がそれほど気にせず使用できる金額は、せいぜい5000円程度といえる。それは感覚としても正しくて、サラリーマン時代、1,000円で過ごした日は節約した気分になるし、10,000円使った日はぜいたくをした気分になったものだ。

もちろん、20代ならもっと少なくなるだろう。

自分のバジェットの50%以上に相当する金額を、異国の地で扱う感覚というのが、私には理解できない。

なぜ彼らはできるのか。理由はただひとつ。人からもらった金で、自らはノーリスクだからだ。

もし失敗したプロジェクトの責任者(と表現できないのが特色だが)が私の親しい人だったら、私は真剣に諭すだろう。

20歳を超えて何年も経つのに、お金の尊さや怖さを、何一つわかっていないのかと。

今回はたまたま寄付だから責任問題になりにくく、実感が湧きにくいのかもしれない。

でも、お金がない→寄付を募ろうという発想は、あまりにも危険かつ貧弱だし、軽々に大金を扱う姿勢は、まるで子どもの火遊びだ。

こういうのって、古い人間の発想なんだろうか。表向き誰もが納得ずくで、途上国の人々に笑顔を与えられれば、それでハッピーなんだろうか。本当は、その金額を扱える人間かどうかも、同時に問われなければいけないのだけれども。

私のお金に対する認識の原点にあるのは、17歳のとき、初めてマクドナルドでバイトをしたときの時給750円であり、初めてゆうちょの通帳に刻まれた月給5000円ほどの「働いた証」である。

自分が汗水たらして1時間働くと、「750円」が手に入る。その経験は、私を臆病にしたのかもしれない。人からみれば、取るに足らない、バカバカしい経験なのかもしれない。しかしそれは、私をどうにかまともな精神に導いてくれる、方位磁石のようなものだとも思う。

失敗を恐れてチャレンジはできないというのも、事実だろう。だったら身の丈にあった、自分が失っても怖くない金額で、自分の責任で村人のためになるものを買えばいい。それができないなら、時が、神様が、やるべきでないと言っているとあきらめて、もっと稼げる人間になるために、精進すればいいのだと思う。彼らは純粋で、動機は正当なものだと私は信じる。だが、自分にできることと、できないことを見極めるのも、大人として重要な能力だ。

クラウドファウンディング自体は仕組みとして面白いし、社会的課題を解決する可能性があるものであることは確かだと思うので、継続して見ていきたい。

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