【vol41】「牛の背に抱かれて」って、そもそもなに?
ベトナム首都ハノイ近郊、ドンラムで村人してます。青年海外協力隊員のminamiです。
最近降り続いた雨から一転、今日は暑いです。久々に35度を超えたのではないでしょうか。4月ころから、ながーく続く夏。
これで12月になると、冷たくじとーっとした雨が降り続けます。人は優しいし、治安はいいベトナム北部ですが、気候ばかりは厳しいです。
さて、今回は趣向を変えて、タイトル考。
いっぷう変わったタイトル「牛の背に抱かれて」だが、ちゃんと根拠がある。
ドンラム村には、牛がたくさんいる。ニンビンは「陸のハロン湾」と呼ばれているそうだが、ここドンラムは「牛のハロン湾」の異名を持つほどだ。
牛の親子。
行きつけの牛。触らせてくれる。
サッカーネットに絡まった子牛。蹴られないように、必死で助けた。
というわけで、ドンラム村についてのブログタイトルを考えるとき、「牛」というのは外せないキーワードだった。
とはいえ、ただ「牛」ではどうしようもない。そこでふと思い出したのが、「敗北を抱きしめて」という本だ。
ジョン・ダワー筆。ピューリッツァー賞受賞。戦後日本が敗戦を受け入れ、アメリカを、民主主義を、憲法を受け入れる過程を、主に庶民の反応を中心に描いた本。
この本を知ったきっかけは、また別の本の紹介による。
アウシュビッツや38度線など、戦跡を巡り、戦争や死について、姜尚中と森達也が対談した。
この本の中で2人が「敗北を抱きしめて」という本、それもタイトルについて考察していて、それが印象に残っていた。折しも現在は安保法案が改定される時期。このタイトルを目にして、考えて、口にすればするほど、敗戦国たる日本の戦後の歴史がリアリティを持って目前に迫ってくるような、そんな気にさせられる。
さて、「抱きしめる」を「牛」と、どう絡めていくか。ここから先は、イメージを膨らませていく。
「敗北を抱きしめて」は、「抱きしめる」対象が、人や動物、有機物でないからこそ、タイトルに深みが出ているのである。
「牛を抱きしめて」ではダメだ。絵がリアルに浮かび過ぎて、面白くない。
では「牛に抱かれて」ではどうだろう。少しはましになったが、インパクトが薄い。「牛に抱かれて三千里」と末尾に何か茶々を入れたくなる語呂でもある。
私ははじめて村の牛を見たとき、どうにかして乗ることができないかと思った。牛に乗った青年海外協力隊員なんて、考えるだけでワクワクする。そこで「牛の背に乗って」という単純な連想をした。
「牛に抱かれて」「牛の背に乗って」を組み合わせていくと、すぐに辿り着く。
「牛の背に抱かれて」の誕生だ。
口にしたときの響きもいい。さらに、このタイトルが持つイメージが浮かんでくるようで、浮かんでこない。
何しろ抱いている主体が、背中、それも牛なのだ。通常、抱くといえば頭に浮かぶのは胸であり、せめて腹だろう。
そこを胸や腹ではなく、背にするところで、一瞬のギャップを創り出す。さらに受身形であることから、「誰が抱かれるの?」となる。
語呂がいい割に、言葉の意味不明さがちょうどいい塩梅で混ざっている。
というわけでタイトル完成。
「牛の背に抱かれて」すぐに覚えてもらえることもあり、我ながら気にいっている。
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↓新入社員のころ、勤めていた会社のキャッチコピー募集に応募した経験があります。不動産デベロッパーという業態で、私が考えたコピーは「あなたと街のあいだに」です。惜しくも次点でしたが、初めて会社で誉められた経験だったので、いまでも心に残っています。ブログランキングに参加しています。たくさんの方に読んでいただけると励みになるので、ぜひクリックをお願いします。