【Vol87】どうして青年海外協力隊員になったのか?

「どうして青年海外協力隊員になったのか?」という質問をされることは多いのだが、そのときどきによって答えは変わってしまう。答えを聞いた相手もなんとなく納得したふうなのだが、どこかしっくりとこない。不思議に思っていたが、ある本を読んで考えが変わった。

そもそも、質問の仕方が悪いのだ。「どうして、なぜ」と聞くと、聞かれた側は事実ではなく、相手を納得させやすいような言い方を、無意識のうちに選んでしまう。それを避けるためには「会社を辞めようと思ったのは、いつのときだった?」そして「青年海外協力隊を志望しようと決意したのは、いつのときだった?」と質問を変えれば、いくぶん答えやすくなることを知った。

さて、答えてみよう。会社を辞めようと思ったのは、27歳、2010年、社会人4年目の夏である。新卒で入った部署(以下A部)で快適に過ごしていた私は、人間関係や労働環境含め、かなり厳しい部署(以下B部)に異動することになった。悪いことは重なるもので、家庭のトラブルも同時期に押し寄せ、夏を過ぎ、秋になるころにはすっかり体力・気力が衰えてしまっていた。そのころ、もうイヤになり、逃げ出したい一心で転職を考えたが、遅すぎた。当時の私に必要なのは転職ではなく、むしろ休養であったのだが、若い私はそれに気付かず、蟻地獄に陥った虫のように悪戦苦闘していた。性格は暗くなり、一日一日を生き延びるのに必死だった。そんなギリギリの状態で、希望するような条件の会社に転職できるわけがない。

しばらくうやうやとしていたのだが、29歳、2012年、社会人6年目の秋にようやく異動が認められた。ただし希望していたA部に戻るのではなく、C部に異動となった。C部はデスクワークが中心で、B部のような厳しさはなかった。体調は回復していたものの、B部では仕事らしい仕事をできていなかったこともあり、人事からの評価は低く、部をまたいでのプロジェクトからは外されて、閑職に回されたような気分を味わっていた。そこで踏ん張って、もう一度がんばるという選択肢はあったのだが、「もういいかな」という気持ちが湧きあがってきたのは、そのころになる。

そこから退職への決意を固めるきっかけのひとつが、海外事業部の扱いだった。私の会社は不動産デベロッパー(以下デベ)だったのだが、基本的にデベは、国内を中心にビジネスをする会社が多い。外資系不動産会社が日本でも存在感がない(有名デベは三井不動産や森ビルなど、国内企業ばかり)のと同じで、土地取引はその国ごとの慣習が非常に強く、どこの国でも、外資系は手を出しにくい分野なのだ。

とはいっても、この時代、海外にまったく出ていかないというのは、いくらデベであっても無理な話だ。そう経営陣も考え、2012年の秋になり、ようやく海外事業部を設けた。しかし、これがまったく前に進まない。バブルで失敗した記憶も残っているのだろう、なかなか踏み出さず、視察先はシアトルやニューヨーク、シンガポールなど、「いまさらそこ?」というような視察先ばかりだった。私は海外に興味があったので海外事業部の動向はチェックしていたのだが、半年以上経ってもどこに投資するのか決められず、視察を繰り返す姿を見て、経営センスを疑った。

というわけで、2013年の春に、青年海外協力隊に応募することを決めた。協力隊を選んだ理由やそこから合格までのいきさつは別の記事に譲るが、晴れて2015年初頭、合格通知が届くことになる。6月末を持って退職することになるが、そのころでも海外事業部の視察は続いていて、辞めることに後悔はまったくなかった。2年近くも視察を続けて決断できない会社に、私の未来はない。

一般的にみて、かなりの優良企業だったと思う。古臭く、体育会的な側面は残っていたものの、安定を求めるには最高の環境だといえた。ただし、私が内定した2006年から退職する2014年にかけて、姉歯事件やリーマンショック東日本大震災などの外部要因があり、生き残りに必死になるあまり、高い給料と引き換えに、どんどん働きにくくなっていったのは、実感としてあった。会議資料ひとつとってみても、どんどん厚みを増している。それほど考慮しなければならない法律や基準が増えたということで、かといって人員は簡単には増やせず、結局ぜんぜん時間が足らずに残業は増えていく。「忙しいけど充実して給料は高い」会社から、「給料は高いけど忙しくて消耗する」会社へと変貌してしまった。それでも、世間的にみれば「残業代がしっかりと払われ、ボーナスは出てクビにならない」だけで優良企業扱いである。資本主義の負の側面が猛威を振るったこの10年、雇用の質は徐々に劣化していることを、身を持って思い知った。

というわけで、冒頭の質問に対する答えは以下のようになる。

「会社を辞めようと思ったのは、27歳のとき、厳しい部署に異動になったため。青年海外協力隊に応募しようと思ったのは、30歳のとき、経営陣にセンスがないと判断したとき」

当然、初対面の人にここまで説明することはできないから、質問されたときには、きっとこれまでと同じ通り、そのときどきにあった適当な答えでお茶を濁すことになると思う。それはそれとして、自分の思考の整理にはいいきっかけとなった。

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